■エディルネ-『イスラム百科事典』第2版より

・Tayyib Gökbilgin,"Edirne,"in Encycropedia of Islam.2nd ed.,Leiden,1960-


 アドリアノープル-トゥンジャ川、アルダ川、メリチ(マリッツァ)川の合流点に位置する都市。ブルサの次にオスマン朝の首都となった。今は同名のヴィラ-イェットvilâyet(州)の行政的な中心であり、伝統的にトルコ人の(今は西方の)トラキヤまたはパシャ・エリの中心であった。その歴史的重要性は、小アジアからバルカンへの主要路に位置し、イスタンブルのあとの主要な宿場であったことに由来する。東の入口はロドプ山から南西につづく、そしてイスタンジャ山から北東へとつながる自然の回廊に護られていた。トゥンジャ渓谷、メリチ渓谷の交通を支配し、メリチ川からエーゲ海へとつづく重要な出発点でもあった。のちに、主要な交通手段は、エディルネを通過してイスタンブルへ通じる鉄道となった。エディルネは特に、オスマン朝の建築的な史跡が豊富である。その重要性は、オスマン朝の首都がイスタンブルに移ることによって減少し、1829年にロシアに占領された時、大きな打撃を受けた。バルカン戦争によって、エディルネはトルコの最前線の都市となり、1913年にブルガリアに短期間、占領され、1920年から1922年までギリシアに占領された。エディルネの人口は19世紀中葉には100000人に達したが、20世紀初頭には87000人(トルコ人47000、ギリシア人約20000人、ユダヤ人約15000人、アルメニア人4000人、ブルガリア人2000人)にまで落ち込んだ。1927年の国勢調査では34528人となり、1945年には29400人となったが、現在ではそれより増加している。現在の人口のほとんどはトルコ人であり、小さなユダヤ人共同体もある。

 都市はトゥンジャ川の湾曲の内側の、メリチ川と交差するところに作られ、セリミエ・モスクが建造された丘の標高は75メートルに達する。さらに東には100メートルを越えるところがある。低地の傾斜に建造された区画は、しばしば洪水に襲われ、ときに壊滅した。都市は二つの主要な部分、「カレ-イチ」―川の湾曲の西部にあり、城壁にかこまれていた区画で、今はほぼ完全に城壁は消滅しており、19世紀末の火災で破壊されたあと、地形は復元された。―と「カレ-ディシィ」-川の東側-から構成されている。後者は、近代エディルネの中心地となった。

 都市の名称は、古いオスマン朝の史料にはEdirneあるいはEdrineと同様にEdrinus,Edrune,Edrinaboli,Endriyeとして散見され、EdirneあるいはEdrineが、イル=ハンのスルタン、ウワイス・ハーンに送ったムラト1世の「征服の書fethnâme」では使用された。歴史史料は、栄誉をたたえる「勝利と幸運の御座所」「スルタン位の御座所」などの名称を用いている。

 都市は、最初、トラキアの部族が住みついたと信じられ、その後マケドニア人やオレスティアと名乗るものたちに占領された、と信じられている。2世紀に、ローマ帝国のハドリアヌス帝により再建され、彼の名をとってハドリアノポリス、アドリアノープルと称された。アドリアノープルは、323年、リキニウスに対するコンスタンティヌス帝の勝利の地であり、378年、ヴァレンス帝がゴート族に敗北した地である。586年、アヴァール族に包囲され、914年、ブルガール族に占領された。1049年、1078年、ペチェネグ人に包囲された。1205年、ラテン帝国のボールドウィン帝がアドリアノープルの戦いで敗北し、ギリシア人とともにカトリックへの改宗に抵抗したブルガール族に捕虜とされた。ビザンティンのギリシア人は、ブルガリア人に対して、アドリアノープルは保持し続けた。アイドゥン君侯ウムル・ベイが、ヨハネス・パラエオログスに対するカンタクゼノスの同盟軍として戦い、エディルネの領主からディメトカを防衛し、エディルネの領主が殺されたと伝えられる1342-3年、小アジアからトルコ人が出現した。754/1353年、ブルガール族とセルビア人の軍の敗退後、オスマン朝の皇子スレイマン・パシャがエディルネでカンタクゼノスの軍に合流した。エディルネの[オスマン朝による]最終的な征服の3年前、オスマン朝のオルハン・ベイは、スレイマン・パシャにエディルネの城塞を目に焼き付けてくるよう忠告した。[エディルネの]征服は、エディルネの南東にあるサズル・デレでエディルネの領主を打ち負かしたララ・シャーヒン・パシャによって、ムラト1世時代に行なわれた。エディルネの領主は、トゥンジャ川岸の宮殿から秘かに船で脱出し、763年ラマダン月/1362年7月、町の人々は自由にそこに住む事を許されるという条件で降伏した。ムラト1世はエディルネの行政官としてララ・シャーヒン・パシャを置いたが、ブルサやディメトカの宮殿で時間を過ごすのを好み、都市エディルネはただちにヨーロッパへのオスマン朝の侵攻の前線基地となった。まさにエディルネからユルドゥルム・バヤズィト[1世]はコンスタンティノープル包囲へ出発した。バヤズィトのアンカラの戦いの敗北後、年長のスレイマン皇子は国庫をブルサからエディルネに移し、エディルネで玉座についた。彼は、のちにムサ・チェレビーによってエディルネを奪われ、ムサは、エディルネを統治し、自らの名を刻した貨幣を鋳造した。ムサの敗北と死のあと、スルタン・メフメト1世は8年の治世の大半をエディルネですごし、そこで死んだ。遺体は先のスルタンたちのようにブルサに埋葬された。825/1422年、偽ムスタファは、ムラト2世に敗北した後、エディルネで処刑された。ムラト2世の統治期間は、エディルネとその周辺、ウズン・キョプリュの町の建物が、ますます隆盛となった。

 エディルネでムラト2世は外国の使節団に接見し、エディルネから遠征に向かった。彼の息子アラー・ウッディンとメフメトの割礼式典はトゥンジャ川に浮かぶ島で行なわれた。ムラト2世の統治は、都市の火災を口実としたイエェチェリのエディルネでの暴動がおき、兵士への俸給の増やすことで鎮定する、ということにみまわれた。ムラト2世はエディルネで死に、メフメト2世があとを継いだ。しかし、彼はコンスタンティノープル包囲に決着がつくまでエディルネにはもどらなかった。包囲計画は、エディルネで練られ、エディルネ周辺で包囲時の銃砲訓練がおこなわれた。征服後、メフメト2世は再びエディルネの宮殿に戻り、そこで861/1457年春、バヤズィト皇子とムスタファ皇子の2ヶ月におよぶ荘厳な割礼の祝典をとりおこなった。セリム1世は、エディルネの宮殿を確保し、スルタンが遠征するときは、皇子が宮殿をまもるようにした。エディルネの隆盛は、10/16世紀も続いていった。スレイマン大帝はしばしばエディルネに滞在し、彼の後継者たちによって豪壮なモスクが建てられていった。しかし、都市の平穏も、994/1586年、1003/1593年の暴動によってかき乱された。アフメト1世の時代から、エディルネの都市内や周辺は、皇室の狩場、皇室の祝典や娯楽の地として名高くなった。特にメフメト4世アブジュavcï(狩人)の時、名高さはピークとなった。のちに、エディルネは、オスマン軍の継続的な敗北に、影響をうけはじめるようになる。1115/1703年、有名な「エディルネ事件」で、エディルネの宮殿を確保していたムスタファ2世が、イスタンブルから来た体制批判者たちが、アフメト3世に味方したため、退位させられた。都市の没落は、1158/1748年、60クォーターを焼いた火事と、1164/1751年の地震によって、速度を速めた。1801年、セリム3世の改革はに対するアルバニア人の兵の暴動がエディルネで起こった。第二「エディルネ事件」は1806年に、同じ理由で起こった。他方、イェニチェリの廃止は、エディルネにほとんど影響を与えなかった。1828-9年の露土戦争で、エディルネはロシアに占領された。この占領は、地方のムスリム人口におおきく影響した。ムスリムはエディルネから移住しはじめた。それらの場所は、周囲の村からやってきたキリスト教徒に奪われた。ムスリムのモラルを高めるため、マフムート2世は約10日間、エディルネを訪れた。メリチ川に大きな橋をかけることを命じ(これは、しかし、1842年、アブドゥル・メジドの時代にようやく完成した)、記念硬貨が鋳造された。さらなる荒廃は、1878-9年のロシアによるエディルネ占領、バルカン戦争や第一次大戦での戦いに起因する。


 史跡:エディルネの城塞の4つの塔、9つの門のうち、我々が名前を知っているのは、一つの塔のみである。もとはビュユク・クレ(大塔)の名であったサアト・クレ(時計塔)である。時計自体は、19世紀に付け加えられた。ヨハネス5世とミカエル・パラエオログスのギリシア語碑文は失われた。

 宮殿: Ⅰ エスキ・サライ(旧宮殿)。エディルネ征服後、ムラト1世は場内にある[エディルネの]テクフル(領主)の宮殿が不十分なものであると感じ、城外に新たな宮殿を建設した。767/1365-6年、ムラト1世はそこに移った。エヴリヤ・チェレビーは、エスキ・サライがカヴァル・メイダン(広場)地区のスルタン・セリム・モスクの近くにあり、のちにアジェミー・オウラン(新兵軍団)の兵営に使われた、とのべている。スレイマン大帝のハンガリー遠征のあいだ、旧宮殿は、6000人の従者に宿を提供でき、40000人にイェニチェリの宿泊所が[旧宮殿の]周辺に提供された。エヴリヤ・チェレビーは、旧宮殿に庭がなく、高い壁に囲まれ、外周約5000歩、長方形で、バーブ・ヒュマユーンbâb-ï hümayâyûn(王者の門)として知られる門があった。スルタン・セリム・モスクの建設後、旧宮殿の重要性は減少したが、まだイチ・オウランの教育には使われていた。宮殿の組織は、イスタンブル征服前と変化がなかった。1086/1675年、スルタン・メフメト4世は、旧宮殿を娘のハディージャへ与えた。彼女は、ムサーヒブ・ムスタファ・パシャと結婚し、このため、のちに[旧宮殿は]ハディジャ・スルタンのパレスという名となった。19世紀後半、旧宮殿の側に、軍事リセ(高等学校)が建てられた。

 Ⅱ サライ・ジェディド・アミーレ(新宮殿)は、トゥンジャ川に浮かぶ島に建てられ、854/1450年、ムラト2世によって牧草地が付加された。サロニカ近郊の大理石を宮殿に集めることは、何千もの木を植えさせたメフメト2世の時代まで続けられた。メフメト2世は、宮殿の主要な建築物から西へと橋を架けた。当時、宮殿と都市の中心部のあいだに架かっていた他の橋は、スレイマン大帝により架けられ、宮殿の重要性を増加させた。何代にもわたり、主要な建築物が増加し、メフメト2世のもとでは、宮殿は[建造時より]2倍の大きさになっていた。11/17世紀の終わりには、新宮殿には、18の建築物、8つのメスジド(小モスク)、17の大きな門、14の浴場、5つの邸宅があった。約6000から10000の人々が宮殿の中に住んでいた。解体はゆるやかなものだった。18世紀に復興が試みられたが、1827年、公式な調査により、ほとんどの建築物が完全に荒廃、あるいはほぼ荒廃していると報告された。多くの損壊は、1829年のロシアによる宮殿の占拠に起因する。ロシアの兵隊は、宮殿の中庭でキャンプした。さらなる復興の試みは続けられたが、第二次のロシアの占拠が、宮殿に弔鐘を響かせた。都市があけわたされる前に、オスマン朝のものが自ら宮殿の弾薬庫に火を放ち、戦闘後に戻ってみると、宮殿には石しか残っていなかった。

 モスク:エディルネにおける最初の金曜礼拝は、のちにハラビイェHarabiyeとして知られることとなる-その最初のミュデッリス(教授)がのちにメフメト2世の師となるしラージ・アッディーン・ムハンマド・ビン・ウマルであった-城塞の中にある、教会から転用したモスクあるいは、チェレビー・ジャーミィで行なわれたと言われている。18世紀の大地震で荒廃し、後に修復され、19世紀末まで残っていた。城塞のなかにある他の教会は、キリセ・ジャーミーと言う名でモスクに転用されたが、これはメフメト2世によって取り壊され、1775~1800年のあいだに消滅してしまった、6つのドームをともなうものと置き換えられた。最も長く生き残ったモスクは、801/1399年に、第4次十字軍で廃墟となった教会の上に建てられたユルドゥルム[バヤズィト1世]のモスクであった。そのミフラーブは側壁の中に建てられた。1878年のロシア軍の占拠により、モスク内のタイル、キュペリ・ジャーミィ(イヤリング・モスク)という名のモスクとのあいだをつないでいた大理石の二つのリングが奪い去られた。他の古いモスクには、エスキ・ジャーミィ(あるいは古いモスク)は、804/1402年、エミール・スレイマンによって建築が開始され、メフメト1世によりスレイマニイェと名づけられた。その名はのちにウル・ジャーミィ、あるいは偉大なるモスクと変えられ、816/1413年、メフメト1世の治世に完成した。内部は正方形で、9つのドームが4本の柱に支えられていた。西門の碑文には、コンヤのハジジ・アラーウッディンという建築家の名が刻まれている。建築時、ミフラーブの正面の窓に、[メッカの]カアバ[神殿]の方向を示す石が置かれ、ずっと大事に扱われてきた。18世紀、モスクは地震の被害を受け、マフムート1世により修復された。他に、ムラト2世によって建てられたムラディエ[・モスク]がある。当初メヴレヴィー・デルヴィーシュの館として建てられたが、のちに主要な建物がモスクに転用された。このモスクは、ミフラーブを覆う優雅なタイルと壁の部分に分けられる。10/16世紀、このモスクは、救貧院や他の付属施設により莫大な歳入をもたらした。他の豊かなモスクとしては、ダール・ル・ハディース(11/17世紀初頭には、50万アスペル(昔のトルコ、エジプトの銀貨)以上の歳入をもたらした)があり、もともとメドレセであったが、839/1435年に完成した。このモスクのミナレットは、1912年の包囲で破壊された。何人かの皇子たち、皇女たちが近くの陵墓に埋葬されたいる。

 ムラト2世にまでさかのぼる他の建築物は、841/1437-8年に着工され、851/1447-8年に完成したウチ・シェレフェリ・ジャーミィ(三つのバルコニーのモスク)がある。エヴリヤ・チェレビーは、建造に7000の財庫が必要であった。それはイズミルの遠征の戦利品でまかなわれた、と述べている。このモスクはまた、ムラディイェ、イェニ・ジャーミィ(新しいモスク)、ジャーミィ・カビール(偉大なるモスク)として知られている。建物は長方形で、6本の支柱で大きなドームを支えており、そのドームの側面に4つの中規模の柱と4つの小さな他のドームがある。支柱のうち4本は外壁の中に建てられている。ハレムには大理石が敷き詰められ、オスマン朝のたてたモスクの最初のハレムと見なされている。ハレムの外周の回廊は、21のドーム型のヴォールト(アーチ型の天井)からなり、18本の支柱で支えられている。三つのバルコニーのあるミナレットは、この種のオスマン朝のミナレットで最初のものとして知られている。また、二つのバルコニーをもつ一つのミナレット、他のミナレットが一つのバルコニーを持つものもある。ムラト2世は、当初、このモスクの維持のため、セルビアのカラトバKaratovaの銀鉱の歳入を割り当てた。のちに[スレイマン大帝時の大宰相]ルステム・パシャが、これらの銀鉱の歳入を国庫に収容した。バヤズィト2世のワクフからの歳入をこのモスクに割り当てるのを許可したために。このモスクの歴史における重要なイベントは、スルタン・メフメト2世の共感を得られていたと信じられているファドルッラー・タブリーズィーの一派であるファフルッディーン・アジェミーによって寄進が行なわれたことである。バヤズィト2世は、トゥンジャ川の岸に、モスク、浴場、病院、メドレセ、救貧院を建てた。モスクの門の年代表示銘には893/1488年という日付が刻まれている。建築は、アッケルマーンで得た戦利品によって費用が賄われた。

  モスクは、アーチも支柱もない簡素な構造で、ドームは4つの壁で支えられていた。タブ-ハーネ(浴場)は、9つのドームが上にあり、各方角に4つずつの部屋で構成され、2つのすらりとしたミナレットがあった。モスクの大理石づくrのミンバル(説教壇)は特に優美であった。モスクには、エディルネのモスクに建てられた最初の私的な回廊(マフフィール)を含んでいた。これは斑岩の支柱に支えられ、おそらく他の廃墟となった宗教施設から持ち込まれたものである。モスクの西方に建てられた病院(ダール・ル・シファー)は、六角形の建築物で、6つの隔離と患者の治療のためのさらに離れた部屋が病院の庭に建てられた(そこでは、患者が、普段音楽を聞いていた、とエヴリヤ・チェレビーは述べている)。メドレセは、病院の前に建てられ、モスクの東方には、救貧院とパン焼き釜があった。バヤズィト2世は、モスクのミフラーブの前のトゥンジャ川岸に波止場を作った。また川の流域を広げた。10/16世紀にエディルネに建てられた最も美しい史跡は、建築家シナンの作品である。それらのモスクのひとつ(タシュリク・ジャーミィ-シナンによって、マフムード・パシャのザーウィヤ(スーフィー教団の修道場)から転用された)は、もはや存在しない。3つのモスクがまだ建っている。デフテルダル・ジャーミィ、シャイフ・チェレビーのモスク、スルタン・セリムのモスク(セリミイェ・ジャーミィ)-エディルネの栄光であり、エディルネにおける最後のオスマン家のモスクとなった。ハレムの門の上にある年代表示銘によれば972/1564-5年から982/1574-5年のあいだに建てられ、エヴリヤ・チェレビーによればキプロス遠征の戦利品を含む27760の財庫で賄われた。8つの支柱で支えられているモスクの大ドームは、イスタンブルのアヤ・ソフィアのものより6キュービット(ズィラー)高かった。大ドームの下のミュエッズィンの回廊は、2メートルの高さの12の大理石の支柱で支えられていた。その下には小さな泉があった。モスクの図書館は右手に、オスマン家の回廊は左手にあった。この4つの大理石の支柱に支えられたマフフィールは、タイルで飾られていて、それらは1878年にロシア人に奪い去られた。ハレムの中庭は、回廊に囲まれていて、18のドームがカプル・デグ半島とシリアの廃墟から(エヴリヤ・チェレビーによればアテネからも)持ち込まれた16の大きな支柱で支えられていた。4つの、3つのバルコニーを持つミナレットは、モスクの四隅に建てられ、しばしば修復された。モスク自体は、1752年の大地震後に修復され、また1808年、1884年、そして近年にも修復された。スルタン・セリム・モスクは、隣接するメドレセ、ダール・ル・クッラー(コーラン朗誦者の一画)、学校、時計館とともに建築的な完全さを体現している。セリミイェ・メドレセのミュデッリスは、エディルネのミュデッリスの長と見なされた。メドレセは、何度も軍事的に占拠を受けたが、現在は、アンティークの博物館となっており、ダール・ル・クッラーは民族学博物館となっている。

 エディルネは、ブルサやイスタンブルのように、独立した課程が認められたイスラム学の重要なセンターであった。
(ムラト2世によって建てられた)ウチ・シェレフェリ・ジャーミィと同じ場所にメフメト2世によって建てられたペイクレル・メドレセの中庭には、重要な諸メドレセがあった。これらの諸メドレセは、古典的なオスマン様式で建てられており、今日では廃墟となっているが、復元することは可能である。都市の宗教施設を維持する収入源として、多くの市場がエディルネに建てられた。最初の市場は、覆い付きのメフメト1世の市場であった(14のドームと4つの門を持つ)。それは、エスキ・ジャーミィのワクフ施設であった。ムラト2世によって建てられた覆い付きの市場-古い市場、として知られる-は、11/17世紀後半に廃墟となった。ムラト3世は、シナンに市場を作らせ、それはアラスタという名で知られ(73のアーチと124の店を持つ)、セリミイェ・モスク[を運営するため]の歳入にあてられた。シナンはまた、セミズ・アリ・パシャのために6つの門を持つ市場を建築した。エディルネには多くのハーン(宿)がある。シナンが建築したハーンは、ルステム・パシャのために建てた小ハーン、ソコルル[・メフメト・パシャ]のために建てたタシュ・ハーンがある。現存する他のハーンは、エクメクジザーデ・アフメト・パシャによって11/17世紀初頭に建築された。10/16世紀初頭、エディルネには全部で16の市場とハーンがあった。のちにその数は増加し、フランスやイギリスの商人がそこで商売をしていた。エディルネで行なわれる商売には、染業、革なめし、石鹸製造、薔薇の蒸留、乗り物製造などがあった。エディルネはまた独自の製本様式でも名高かった。エディルネの水の供給は、937/1530年に建てられたハセキ・スルタン水道橋によって確保されていた。また、300の公共の泉があったが、大半は現存しない。宮殿からは橋が架けられ、エディルネにあるトゥンジャ川に架かる4つの橋とメリチ川にかかる1つの橋があり、最も古い橋は823/1420年に建てられたガジ・ミハルの橋である。

 最初、エディルネの統治は、カーディ(イスラム法官)とスバシュ(おそらくポコッケPocockeが述べたイェニチェリのアー(長)と同じ人物)の手に委ねられていた。イスタンブル征服後、ボスタンジュ・バシュが、[エディルネの]統治の任務にあたった。エディルネのカーディは、10/16世紀初頭、日給300アスペル(昔のトルコ、エジプトの銀貨)で、イスタンブルのカーディへの昇進を期待でき、エブリヤ・チェレビーによれば、45人の副官(ナーイブ)が配下にいた。エディルネのカーディは、政府中枢によって任免された。ひとつの興味深い地方的な官職は、庭師長Chief Gardner(ケトヒュダ・イ バーグヤーンKethüda-yï bâgyân)であり、3つの川[トゥンジャ、メリチ、アルダ]岸の私的な庭や果樹園を監督する任務にあたった。都市エディルネは、スルタンの直轄地(ハス)であり、10/16世紀初頭には、約200万アスペル(昔のトルコ、エジプトの銀貨)の歳入を産み出した。収入は、時には、エディルネの国庫からイスタンブルの要請に答える形で援助に使われた。エディルネはまた、ギリシア正教の大司教、ユダヤ教のラビの長の座所であった。

 50以上のザーウィイェやテッケ(いずれもスーフィーの修行場)とともに、エディルネは多くの名高いデルヴィーシュのシェイフの出身地であった。最も有名なのは、ムラト2世の時代のメウレウィース・ジェラールッディンとジェマールッディンと、グルシェニー教団の第二のピール(聖者)と考えられる1151/1738年に死んだセザーイ・ハサン・デデであった。

エディルネの美しさは、多くの詩文で讃えられた。アラーウッディーン・アリーの「ヒュマユーン・ナーメ(王者の書)」、コジャ・ニシャンジュの「タバカット・アル・ママーリク(王国の道)」などの中で。郷土詩人ハヤーリーは、詩の最後を、エディルネ、エディルネ…とリフレインでしめくくった。これはしばしば見習われてきた。最後に、エディルネは、ネフィのスルタンへの頌歌kasidaの中で、生き生きと描かれている。


indexへ戻る

inserted by FC2 system