■オスマン帝国社会における性生活
 Sema Nilgün Erdoğan,Sexual life in Ottoman society,Istanbul,1996 から見えるもの

 10年ほど前に、滞在中のイスタンブルで購入した本。通俗的な読み物なのか、歴史研究書なのか判断がつかなかったのだが、ぱらぱらっと眺めて見るとどうも前者のようだ。ただ、いままであまりとりあげられてこなかった視点を提示することで、従来のオスマン帝国史像に若干、違った像が付け加えられるかもしれない、とは思う。訳文は相変わらず拙いのだが、興味のおもむくままに訳しつつ、所感を記しておきたいと思う。



目次

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オスマン帝国社会における性生活 007
最大の謎:ハレム 009
オスマン帝国領内における世界最古の職業の活動 033
性科学(セクソロジー)の百科事典(バフナーメBahnâme) 047
イスタンブルのゴージャスな女性 052
オスマン男性にとっての女性の魅力 059
遊女たち(オダリスク) 062
踊り娘(チェンギス) 069
踊る少年(キョチェクス) 073
オスマン人の目から見た世界の美男美女 078
オスマン社会におけるホモセクシュアリティ 086
暖かな愛の巣:トルコ風呂 094
オスマン社会に衝撃をあたえたセックス・スキャンダル 110
いちゃつきの言葉 116
オスマン・セックス・アネクドート 125
オスマン人はどのようなタイプの文学を享受したのか? 131
フェッターフ・ナーメ 135
書誌 142


オスマン帝国社会における性生活 (序文)


 オスマン帝国は、ムスリムの国家であり、この宗教による厳格な統治は、性生活にも反映された。

 家族生活は神聖で純潔性は不可侵なものであった。人類の種の継続は神聖なる義務であった。したがって、男性は子孫を残すという性質を達成するために生きており、女性は男性の性的活力の強い衝動のもとで存在しなければならなかった。信仰によってこの生物学的な衝動にある程度の抑制がもたらされた。しかしながら、寛容が厳格な抑制をくぐりぬけた。人類の行動にもとから存在するいくつかの逸脱行為は妥当と見なされた。

 聖典コーランは、性的活動が種の継続には不可欠である、と示唆している。しかし、それは性交において男性のみが性的興奮を表わす権利を持ち、完全な満足を得る限りにおいてだが。女性は一定の規制のもとにあった。つまり、女性は貞節を守り、穏当な態度をとらなければならなかった。妻と夫はベッドの中で行なわれるべき行為を強いられた。これは、避けがたい倫理的な義務であり、夫婦の仲を長持ちさせるのに不可欠だった。

 オスマン帝国の男性は、コーランの許すところによって合法的な妻として4人まで女性を娶ることができた。この問題は、いつも現代の男性の関心をよぶテーマでありつづけた。なぜ彼らは、特権的なオスマン帝国の人々のように、1人より多くの妻を持つことができないのだろう? なにか間違いがあったのだろうか?

 昔は、これは売春を阻止するためにとられた予防措置であった。それは男性を家にとどめ、ムスリム人口の増大を導いた。

 イスラム的な統治は、結果的には男性に都合がよい。イスラムの国々はたいてい男性の支配的な社会である。

 コーランは、また、夫婦の双方ともが離婚を求めることができる、と言っている。しかしながら、オスマン帝国の男性にとって、自分の心の中にもはや思い描くこともしなくなった女性を排除する理由をみつけることは、比較的容易なことだった。女性は、彼女の夫が倒錯した性行為を求めた、あるいは彼がもはや男性器によって満足をあたえられなくなったという状況のもとでのみ離婚を求めることができた。

 オスマン帝国の社会においては、家族生活は外部からの影響に対して閉ざされていた。これはまた住居のつくりからも明白である。女性が住むところは「ハレム」と呼ばれ、禁じられた領域であった。家族以外の誰もこの場所に入ることはできなかった。

 厳しい規制のために、男女の間に健全な関係をつくりあげることは禁じられ、ある程度の性的な逸脱は避けられなかった。われわれの手許には、今日まで生き残った、オスマン帝国の社会における性生活について書かれた数少ないテキストしかない。現存するテキストでは、男女間の性生活のみならず、同性愛者についても色鮮やかに扱われている。

 書かれた文書、性についての社会的行動の矛盾にも関わらず、おどろくほど、そこにはイスラムの厳格な統治をやわらげる、ある程度の寛容が存在した。

 おそらく、この寛容は宮廷に、自ら肉欲のとりことなっていたスルタンたちに、端を発するのであろう。彼らの目は半分閉じていたに違いない。

 この本の一部の章は最近出版された文章からの抜粋である。(以下、謝辞)

<所感>
 要するに、建前上は、イスラムに基づいた統治を標榜していたが、統治者たるスルタンの寛容により、実際には抜け道はたくさんあったということ。性生活においても、結局は男性優位な状況にあった、ということになるだろうか。

 


最大の謎:ハレム

ハレムの場における主要人物たち(p.11)



宮廷の庭でのお祭り騒ぎ(p.12)

 スルタン・セリム2世(在位1566-1574)は、狩を楽しみ、狩猟期にはエディルネの宮廷に滞在した。スルタンがお祭り騒ぎを望むとき、下僕に命じると、彼らは庭に飲み物、食べ物を運んでくる。日没後、スルタンは2人のお気に入りを引き連れてやってくる。彼が座った後、他の全てのハレムの美女たちがその場を彩り、踊り、ワインをすすめる。
 スルタンは、陽気ですらっとした踊り子たちの体を見ると、彼女らのうちの一人と一夜をともにすごそうと決心する。スルタンのお相手を切望する他の女たちはスルタンを楽しませようとゲームをはじめる。


ハレムのトルコ風呂で少女を追いかけるスルタン(p.14)

 スルタン・セリム2世は、狩、魅力的な女性、彼を悲劇的な結末へ導くパーティーを好んだ。彼の最後のトルコ風呂での楽しみは情熱的な死をもたらした。
 ある日、スルタンはハレムのトルコ風呂での乱交パーティーを思いついた。準備はすぐに始められた。経験豊富な女性、スルタンが以前味見をした女性はよばれなかったが、元気のよい少女は裸でスルタンと入浴することを命じられた。
 セリム2世はハマムについたとき、かすかに憂鬱であった。ハマムの湿った暖かい雰囲気が彼の動きをさらに緩慢にした。
 元気のよい健康な処女はスルタンの体をぐるりと洗い優しくマッサージした。それからスルタンはにげようとする少女のすべりやすい体をつかまえる遊びをはじめた。彼の手がほとんどふっくらとした身体をつかまえかけたとき、彼は転倒し、大理石の床に横たわった。ベッドへ運ばれたが、疲弊しきった心臓には手遅れだった。


スルタン・ムラト3世:スルタンの肉欲へ向けられた熱望は、決して満たすことができなかった(p.16)

 ムラト3世はまた快楽を追及するスルタンであった。歴史家たちはムラト3世の子供の正確な数を見積もれない。その数は106人から130人の間であったと見積もられる。

 ムラト3世の時代は、宮廷に大変高価な奴隷少女を売りにくる奴隷商人たちの黄金時代であった。

 …

朕は命ずる:世界でもっとも豊満な女性を連れてまいれ(p.18)

 オスマン帝国のスルタンで唯一、精神に異常を来たしていたと考えられているのがイブラヒム2世(訳者注:イブラヒム 在位1640-1648)である。イブラヒムは即位するまで[ハレム内の]彼の部屋に幽閉されていた。恐怖をともなった長期の幽閉生活は、イブラヒムの性的能力を著しく弱めていたが、権力を手に入れてまもなく、宮廷医はハーブと特殊なペーストによりイブラヒムを治療し、イブラヒムは楽しんで若い少女を追いかけられるようになった。イブラヒムは、ハレムにいる女性だけでは満足せず、結婚した女性にさえも招待状を送り、これが地方官の反乱を引き起こしたこともあった。

 ある日、この精神に異常を来たしたスルタンは、最も豊満な女性を連れてくるように、イスタンブル周辺に配下を遣わした。彼らはくまなく探し回り、まるまると太った体重130キロのアルメニア人を見つけた。スルタンはこの女性を大変気に入り、彼女のことを「シヴェカルŞivekar」と呼び、彼女以外の女性とはともに過ごさず、彼女の抱擁は、スルタンのたよりない身体の避難場所となった。おそらく彼は、彼女の胎内にいるような安らぎを覚えることで、精神の異常から回復していった。(イブラヒムの母キョセム・スルタンは、オスマン帝国史上、最も無慈悲で権威的な性格の持ち主の一人であった。)

 シヴェカルは、イブラヒムの第六夫人となり、国中の人気をも集めた。

 イブラヒムの母である母后(ヴァリデ・スルタン)は、イブラヒムが禁断の果実をむさぼるように勧めた、と言われる。彼女が、唯一の念願である、オスマン帝国の唯一の統治者であること、を可能とするために。

 スルタン・イブラヒムは、ハレムにある自室を全面鏡張りにし、性交の時、自分自身が見えるようにした。
 
 毎週金曜日、定期的にイブラヒムに献上される処女たちでさえ、イブラヒムの欲望を満足させられなかった。イブラヒムはときどき、自室にハレムのすべての女性を集め、彼女たちが牝馬になったかのように歩きまわることを命じ、自らはただの種馬となった。


スルタンだって恋におちる(p.20)

 1774年から1789年までオスマン帝国を統治したスルタン・アブドゥルハミト1世は、ハレムにいる一人の奴隷少女に、一目で恋におちた。

 アブデュルハミトは、ルフシャーという名の彼女のとりことなり、彼女の一挙一動が、真正なる愛へアブデュルハミトを導いた。

 ある日、ルフシャーは、ある憤りを抱いて、彼女の恋人アブデュルハミトに会わないと決心した。無力で傷つきやすいスルタンはルフシャーをハレムから追い出すことを考えた。しかし、彼女が誰かの腕の中にいる、と考えることにたえられなかった。

 ここに、ルフシャーに愛と許しを乞うスルタンの手紙がある。(これらの手紙の原本は、トプカプ宮殿博物館の図書館に保管されていた。)

 最初の手紙:

 わがルフシャー
 あなたのアブドゥルハミトはあなたに焦がれています…
 生きとし生けるものすべてを造られた神は、恵みと許しをあたえ賜うが、
 あなたは、愚かなあやまちを起こしたあなたのとりことなっているわたしに、宣告をくだしました。
 わたしは膝を屈し、あなたの許しを乞います。


<所感>
エキゾチシズムを満足させるような、スルタンはハレムで荒淫に溺れ…というイメージの典型を提示したかったのだろうか。それにしても、スルタンの恋文なんて、よく残されていたなぁ…。

性科学Sexologyの百科事典:Bahnâme


「バフナーメ」は、セックスやエロティシズムについて啓発するねらいをもって構成されている。それらの歴史ははるか東方の文化にさかのぼる。

 インドの「カーマ・スートラ」、アラビアの「匂える園」Perfumed Gardenは、この類の本では唯二つ有名なものである。

 15世紀以降、オスマン帝国の人々は、すばらしい才能を持った芸術家が描いた細密画で飾られたこれらの本を利用することができた。それらは、男女ともより満足するようなセックスの体位のみならず、性欲を起こさせる方法、性的な健康Sexual health、避妊の方法についてのものであった。

 宮廷で楽しまれたこれらの悦楽の書のなかの細密画は刺激的であったが、一般に出版されたものはより穏やかなものであった。18、19世紀に書かれた「バフナーメ」は、性的な技巧、エロティックな幻想が内容の大半を占める。イスタンブルで出版されたある「バフナーメ」は本屋でひそかに売られていた。

 金持ちは色とりどりに描かれた「バフナーメ」を手に入れるため莫大な金を払うことができたが、一般の人々向けの絵のない「バフナーメ」もあった。しかしながら、のちには絵が容易に手に入るようになり、彼らの求愛の/性交の技巧を改良することができた。

 今、あなたがオスマン帝国の男女が当時ひそかに行なっていたことを知りたくなったなら、われらの小さなつたでともにメトシエラ(969年生きたユダヤの族長)と同じ位老いたすずかけの木にのぼって、覗き見て見ましょう(=ともに見ていきましょう)。


 ■体位についての「バフナーメ」からの引用

 「彼女は、頭のしたに手を置き、足を大きく広げ、ほほを胸に引き寄せ、あおむけに寝ていた。彼はやってきて彼女を抱きしめ、二人は向かい合い、胸が触れ合った。硬くなったが彼女の女性器のドアをノックした。彼女のお尻がゆっくりと動いて、彼女は彼を受け入れた。彼女がより速く動き出すと、二人とも絶頂に達した。」

 「片足をあげ、彼女はあおむけに寝転んだ。彼女の熱き相方は、彼女の足のあいだにおちついて、彼のコックが彼女の陰唇に触れるようにしている。おたがい、スリリングな休息の時を楽しんだあと、彼女はめくるめく心地で言う。「ああ、私の中のあなたへの欲望は我慢の限界です。抱きしめて、やさしくして」と。彼は思うままにふるまい、彼女はきつく彼を抱きしめ、物語は幸福な結末を迎える。」

 「カップルはベッドに腰掛け、その下でお互い足をからませる。彼は彼女の性器に触れたくて、おたがい近づいていく」

 この種の体位はとても長い男性器を必要とする。

 「期待しながら彼女はあおむけに身を横たえ、足をもちあげる。彼女が彼を感じたとき、彼女の足は彼を力強くつかまえる。彼は彼女の肩をつかみ、彼女の中へ入る。そして、調和のとれた動きが彼らを満足へと導く」

 「彼女は立ち上がり、手をへそへと置く。男は野生の馬のように跳びかかる。おお、ダーリン! 私の女性器を露わにしてしまうのね、と彼女ははにかみつつ言う。彼は、もちろん腰の躍動をとめたりはしない。逆に、彼女が果てるまで動きを早めるのだった。」

 「彼女の足は伸びきり、右側へ横たえられる。彼は、後ろにまわり、片方のももを彼女にのせ、もう片方を彼女の足の間に置く。つばで男性器をしめらせ、女性器や肛門にこすりつけ始める。彼は射精しそうになると、男性器をすばやく最も近くの穴に押し込む。しかし、アナル・セックスは褒められた行為ではなかったので、彼は精液をよりふさわしい場所のためにとっておくべきだった。」

 「彼女はベッドに横たわり、片ひざを胸に引き寄せ、足をもちあげる。彼は彼の大きなエンジンを彼女の中に挿入する。彼女はかすかなうめきごえをあげる。興が乗ると、彼は彼女の髪をつかんで引き寄せ、射精するまでスピードを増していった。この体位は、カップルに驚くほどの快感をもたらす。」

 「おろかな体位においては、彼女は待ち、彼がそこにいるとき、彼女の肛門は踊りだし、彼のものをとても深くくわえこむ。この体位は、奴隷少女との予期せぬすばやい飛翔にとても便利である。男が十分に強靭なら、楽しめること請け合いである。」

 「彼女は、外出するかのように着飾り、壁にもたれ(P48)、男が来て、彼女のヴェールをとり、キスする。そしてサルヴァル(下着の一種)を剥ぎ取り、むき出しの足をつかむ。彼女の女性器が目の前に現われ、彼は勃起し、彼女が歓喜の叫びをあげるまで荒っぽく腰を動かす」


 ■あなたの愛する人にキスすべき場所

 あなたに伝えておくが、女性の頬、唇、目、おでこ、首筋、胸、へそのまわりは、キスするべき場所。もし彼女の大陰唇が綺麗なら、そこもまたおいしいことでしょう。もちろん、あなたがのぞむならですが。彼女にキスする間、あなたは飽きるということがないでしょう。

 ■避妊のための薬

 白ぶどうがつぶされ、彼ら自身の愛液に入れられ、徹底的に混ぜられた。それから、少量のムスクの根が加えられた。女性器は、性交前に、この液で浸された布で清められた。これは、彼女を処女の如くし、妊娠を防いだ。

<所感>
当時の人びとの実用書として使われていたのだろうか。
帝政ローマを舞台とした小説『修道士ファルコ』シリーズ(リンゼイ・デイヴィス作)では、主人公ファルコと妻ヘレナが、みょうばんを避妊のために使用されていたことが描かれている。それは16世紀アラビアで書かれた『匂える薗』でも同様で、みょうばんを使っていたようだ。


オスマン男性にとっての美の基準

<所感>
オスマン帝国支配期、当時の男性が女性のどんなところを見ていたか…ということのようだけど、訳しているうちにばかばかしくなってきました。なんだか夜の盛り場で聞かされる与太のようなもので。それも当時の一つの視点なのか、と思って訳してみましたが。

 16世紀、オスマン帝国はアナトリア、バルカン半島、ギリシア、オーストリア、ハンガリー、エジプト、パレスチナ、北アフリカ、エーゲ海の諸島、黒海と地中海沿岸にわたる広大な領地、ネーションを統治した。

 イスタンブルは首都であった、と同時に以前述べたように、そこに住む人は、人種の違いにとらわれず、あらゆる国から選ばれた美人たちは、最も裕福な家々に、コナクKonakあるいは宮廷にさえ、幸運に恵まれればいることができた。この世界中の様々なヴァラエティを持つ少女たちは、オスマン帝国の紳士たちに、体質の違いを観察する機会を与え、性的な満足を得るために最も望みうる特徴についてのガイドラインを作成する機会を与えた。

 新たな趣向や享楽を行なうやり方は洗練され、美の基準は極限まで上げられた。

 あらゆる点から、オスマン帝国の目利きたちは、平均程度の体重で、ふくよかな、真珠のような肌をした、化粧し、香水を身につけ、手足はヘンナ(香りのよい花から抽出された赤茶色の染料)で飾り立てられ、特に、長いことトルコ風呂に入って、熱い蒸気でブラッシングし、徹底的にリフレッシュしてからあらわれたような磨きあげられた体に特別な髪をした女性を好んだ。

 ここで、我々は生物学的な衝動の目利きたちによる、公式化された美の基準について見ていきたい。

 この公式のマジック・ナンバーは「4」である。

 4つのミステリアスな黒 :髪、眉毛、まつげ、瞳の色
 4つの謎めいた朱色がかった刺激 :舌、唇、頬、えくぼ
 4つの半円形の美 :顔、目、手首、かかと
 4つのとても長い持ち物 :身長、鼻、眉毛、指
 4つの甘いにおいのする魅力 :鼻、手足、armipts(?)、女性器
 4つの広くてまどわせるもの :額、手、乳首、尻
 4つの狭い秘密 :鼻骨、耳穴、へその穴、女性器
 4つの小さな前菜 :口、唇、手足、耳
 

 よく働き、とてもえり好みする目利きたちは、このリストを下記の”必要なもの”によって延長した。

 頭 :大きくもなく小さくもなく
 身長 :高からず低からず

 太りすぎずやせすぎず、優美な髪を持つべきである。
 
 そして、最も重要なのは彼女の笑顔、暖かい心であり、彼女の笑顔に活力を得て、彼は静かに天へも登る気持ちを捧げられる。

<所感>
ようやく、ちょっとはまともな発言が出てきた、と思ったら、また以下のように続く。

 好色な女性の目安はどんなものであったのか? 再び、広範な経験に基づいて基準が形成された。ここに、あなたがこの有益な知識を得るためのリストがある。

 大きな口 = 大きな女性器
 小さな口 = きつい女性器
 …(以下略。同様の趣旨の記述)

 トルコ人男性は、いまだに女性をじっと見る習慣を持つ。私が思うに、それはこれらの秘密の意図を見抜こうとしようとするためではないか。


オスマン社会に衝撃を与えたセックス・スキャンダル


 スキャンダルの関係者はムスリムの国家によってとても厳しく罰せられたけれども、セックス・スキャンダルもまた、オスマン社会の一部分であった。

 これから、社会に大きな衝撃を引き起こしたスキャンダルのいくつかについて見ていこうと思う。


欲情した”英雄の妻”

 バリ・ベイBali Beyとその一族は、勇敢さによって知られていた。彼らは、オスマン帝国に仕え、特に、バルカン半島での戦闘に従事した。

 セメンディレの統治者であったバリ・ベイは、裕福な階層から妻を娶っていた。熟れた美を備えていた英雄の妻は、邸宅に若い男を招いてもてなしていた。ある日、邸宅は襲撃を受け、若い男とバリ・ベイの妻は即座に捕らえられた。

 彼らはカーディーの前に連れられてきた。カーディーの前で若き紳士は告白した。「彼女は金をくれ、食べさせてくれ、服を買い与えてくれた」と。ゆえに、彼はオスマン朝の最初のジゴロと考えられた。しかし、このスキャンダラスな不倫についての決定をカーディーがくだす前に、一人のバリ・ベイに忠実な男が、即座に短剣をとりだし、若い男を刺殺した。

 この事件の後に、バリ・ベイの名誉は多かれ少なかれ守られた。彼の妻はウスキュプに送られ、高位な者が捕らえられる場所に拘留された。

 しかしながら、その女は若い男を我慢することができなかった。彼女はウスキュプからイスタンブルへ舞い戻ってきた。彼女は若い男と同棲し始めた。彼らは再び捕えられ、男は打たれ、投獄され、獄死した。

 中傷者によれば、頭に血の上った女は恋人の墓へかけより、墓から死体を掘り起こし、交わった。(p111)彼女は、その後、イスタンブルで死んだ恋人の兄弟と暮らし始めた。この威厳に欠けるundignified女性について、スルタンに報告がなされた。

 しかし、物語の残りの部分やヤウズ・スルタン・セリム(1世)の彼女に対する断固たる処置についても、記録は残っていない。


イスタンブルにおける変装した若い男の邸宅に住む淑女へのサービス

 1577年、さらなるスキャンダルがイスタンブルを襲った。ムスタファという名の男娼が、若くて魅力的な少年たちを金角湾近くに集め、イスタンブルの邸宅で特別なやり方でサービスをさせた。
 
 これらのルックスのよい、強靭な少年たちは、長髪をなびかせ、仕立て屋や美容師のように女性の服を着て邸宅に入っていった。

 未亡人、愚かな夫が一人で残している淫らな妻、若妻は、いわゆる仕立て屋や美容師の強靭な腕の中で甘い時をすごした。

 しかし、ある日、このとても特別なサービスの最中に少年の一人がつかまった。非常に困難なときを過ごしたのち、彼は沈黙をやぶり、夜鳴きウグイスのようにしゃべりだした。ムスタファは逮捕され、彼の一団は姿を消した。

 このことは十分に封印されなかったが、不愉快な事実であった。邸宅に住む紳士たちは、自分の邸宅を少年たちが訪れたのではないか、という疑惑を長い間打ち消すことができずに過ごした。

 その年は、イスタンブルにおいて離婚率が最も高くなった年であった。


ムスリムの女、ユダヤ人の少年、愛と死

 非ムスリムの男との不倫に足を踏み入れたムスリムの女性に罰が与えられるときは、石投げの刑に処された。

 オスマン帝国の歴史において、この懲罰は一度だけ行なわれた。
 
 引退したイェニチェリであるアブドゥッラー・エフェンディの妻は、若きユダヤの貿易商に誘惑された。

 彼女は1680年にアクサライで起こった事件の後、死罪を宣告された。

 死罪に処された彼女の下半身は、(p112)剥き出しのまま土に埋められ、彼女は公衆の
面前で死ぬまで石を投げられた。
 
 これは、オスマン帝国の歴史においてこの種の事件に対する最初の判決だったので、名士たちは、ルメリのカーディーたるアフメト・エフェンディに判決を翻させようとしたが、失敗した。

 犯罪の告知と懲罰は、イスタンブルの至るところで、触れ回り役の官吏によって告げられた。

 ブルマル・ストゥンの前のスルタン・アフメト広場において、彼女は半分だけ埋められ、広場に集まった人々に石を投げられた。スルタン・メフメト4世は、大いに好奇心をそそられ、この処刑の見物人の中に加わっていた。

 彼女が投石されている間、ユダヤ人の貿易商は、牢の中にいた。彼はイスラムへ改宗して彼女と結婚することを約束したが、処刑人に首をはねられるのをまぬがれなかった。


<所感>
ここに見たエピソードだけでは、オスマン帝国社会における、女性や異教徒に対するムスリム男性の社会的な優位が見てとれる。そういったエピソードばかり集めたのか、それが日常のことだったのかはわからないけれど。

オスマン人の目を通じて見た世界の美男美女

 
 オスマン帝国の領地は三大陸にまたがる広範なものだった。その首都イスタンブルは、様々なエスニック・グループが共存して暮らすもっとも刺激的な都市のひとつであった。
 
 われらがすばらしき詩人エンデルンル・ファズル・ベイ-彼の作品はエロティシズムに満ちていることで有名-は、性交に自らの喜びを求め、宮廷において円熟味を獲得した。彼はとても経験豊富な文人であった。

 ある日、彼の恋人の一人(おそらくもっとも嫉妬深い女性だった)が、「わが愛するファズル、わたしの好奇心を満たすために、どうかきっぱりと教えてください。どの民族(ネーション)の男性が最も魅力的かについて書いて、彼らの美点を図示してください。」と求めた。ファズル・ベイは、恋人の願いをとても喜んで、さまざまな民族(ネーション)のホモセクシュアルについて「フバンナーメHubannâme」と称する作品を書いた。どのようにして彼は様々な民族(ネーション)の男性の魅力を視覚化したのか? ここに彼の作品の一部を引用する。


 ギリシアのすばらしく美しき人々:
 
 男性も女性も魅惑的な美を有する。彼らの身体は驚くほど鍛え上げられている。神よ。何という喜び。何というすばらしいルックス。…


 スペイン人の魅力:

 …
 そのよく鍛え上げられた身体は、真珠のような肌をした顔、漆黒の髪とまゆげで飾り立てられている。
 …

 空飛ぶオランダ人:

 冷ややかな肌をしてあまり魅力的とは言えない。彼らはまるでクリーム色の肌をしたロシア人のようだ。彼らは、その時間のほとんどを教会で過ごすが、性交の時は決してあなどれない。


 イギリスのバラたち:

 彼らは寡黙だが、あなたの心をかき乱すほどの美を渇望している。彼らは静かで、いっぷう変わった島に住む。これらの生まれつきひげのない人々は、平均的な体重で、道端に咲く最も白い百合のように白い。これらの魚のような男性のほとんどが船員である。彼らはすばらしい性的魅力を持つにもかかわらず、私は彼らが満足感を与えてくれるとは言えない。


 モロッコ人の曙光:

 若木のように背が高く、これらの暗い色の肌をした無粋なものたちは、親しみにくい。
 …

 
 オーストリアのハンサムたち:
 
 彼らの銀のインゴットのような筋肉では世界を動かすことはできない。ヨーロッパ人特有のこととして、彼らの腕は、彼らの恋人が望むほど長い。…彼は決して恋人にノーと言わない。
 …


 エンデルンル・ファズル・ベイの恋人は「フバン・ナーメ」に啓発され、今度は彼に女性について書かせた。彼はこれを拒んで言った。「私のすばらしき詩において売春婦について言及すべきではない」と。恋人が彼に、去れ、と脅した時、無力なファズル・ベイは降参し、「ゼナン・ナーメZenannâme」(女性について)を書いた。

 今、あなたの心の目に、エンデルンル・ファズル・ベイの美しき女王たちの光を届けよう。


 インド人:

 彼らの顔、目、肌は暗い色で、それらは壁にかかった額入りの絵のようだ。あなたは彼らと性交したいとはのぞまないだろう。彼らがあまりに堅苦しいので。


 ユダヤ人:

 彼らの平面的な顔は、雪と同じように味のないにぶい肌をしている。ホモセクシュアルの少年も多い。 


 ギリシア人:

 何という美しさ、。何という魅力。彼女のような女性に会うということはまさに運命だ。
 …

 
 オランダ人女性:
 
 彼女らの身体は、あまりプロポーションがよくない。しかし、歩く姿はすばらしい。黄味がかった肌をし、たいていはあまり魅力的ではない。男性も女性も同様。すべての女性はあまり貞操がない。


 ポーランド人:

 彼女らは目立つ美人だ…すばらしく清潔で優美な身体をしている。


 イギリス人:

 彼女たちの唇が動くとき、あなたはナイチンゲールのささやきを聞くこととなる。彼女らはもとからのかわいらしい顔をしている。とても装身具をほしがり、豪華な衣服を着ている。


 オーストリア人:

 これらの魔女たちは、絹のような髪と水晶のような肌をしていて、とても移り気だ。


 スペイン人:

 スペインの美人は、背が高く細身だ。彼女らの身体はとてもすばらしい。


 フランス人:

 彼女らは、優雅さのエッセンスであり、銀色の肌をし、すばらしい美を有する。つねにすばらしい衣服を身につけている。


 ペルシア人:

 荘厳な淑女たちの、アーモンド型の目、なめらかな身体、まゆげ、声、仕草はすばらしいとりあわせだ。


 さまざまな民族(ネーション):

 ハンガリー女性は美しくない。ブルガリア女性とともに眠ってはいけない。クロアチア女性を見てはいけない。男性のルックスはすばらしいが、女性は残酷だ。

<所感>
文面ではわかりづらいが、この本には何枚かの図版がのせられていて、それを見るとよりわかりやすい。男性について、女性について、と書いてあるが時々区別せずに書かれているところもある。どの人々をとりあげたかで、宮廷人たるファズル・ベイの知ることができた民族の範囲を知ることができる。それにしても…この褒めたり、けなしたりは、当時のオスマン人に共有されていたものなのだろうか。単にファズルくんの好みの問題なんじゃないの?という気もしてくる。特に、東欧の女性とつきあって、何かひどい目にあったりでもしたのだろうか。



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